東ネパール・イラムで見た9.11同時多発テロ

23年前の2001年9月11日がよみがえる

投稿 2024年9月12日

もう23年も前、ネパールの東端、インド国境にほど近い、イラムという町にいきました。

カトマンズから1時間ほどの飛行で、インド国境の町バドラプルへ、そこからジープで、北に向かいました。バドラプルから150km北には、ヒマラヤ山脈がそびえています。谷、山をジープで越えて3時間、標高1600mのイラムに着きました。イラムから20km東にはインド国境があり、インド側は紅茶で名高いダージリンです。イラムも紅茶の産地で、一面紅茶畑に囲まれた小さな町ですが、それなりの賑わいがありました。

紅茶畑の中の安宿で、一夜を明かしたその翌朝のことでした。宿の食堂に降りて行くと、白黒テレビに英語ニュースが流れています。超高層ビルの崩落現場、株大暴落のマーケットの画面は、とても現実とは思えませんでした。それが9.11でした。

2001年は不思議な年でした。6月に、ネパール王国消滅の引き金となる、王族殺人事件が起きました。そしてその3か月後に、世界を揺るがす9.11が発生。大国と小国、どちらも存亡にかかわるような大事件が、重なりました。また、この渡航の時に進めていたプログラムは翌10月に成功し、翌年ヒマラヤ圏サパナの設立につながった、という年でもありました。


激動の2001年から、王国が消滅して新しいネパールができるまでを、まとめてみましょう。

2001年1月マオイスト(反政府組織)が人民解放軍を組織
2001年6月ネパール王族殺人事件
2001年9月ニューヨークで米国同時多発テロ
2002年~2006年ギャネンドラ国王が専制政治を始めるが、混乱の中終焉し退陣。政府とマオイストが和解
2007年連邦民主共和制を作るための暫定憲法できる
2008年制憲議会(新しい憲法を作る議会)で、王制を廃止し連邦民主共和制とすることを決定
2015年4月大地震発生
2015年9月さっぱりまとまらない制憲議会だったが、ようやく新憲法ができて、新しいネパールがスタート
2001年からのネパール

年表をまとめてみると、王族殺人事件、9.11から王制の崩壊、大震災を経て新国家に再生と、激震の15年間が見えます。そして、その激震さえもひょうひょうと受け流すネパールの知人たちあっての活動だったな、と思います。

以下のブログは、2011年9月に投稿したもの。その10年前に、イラムで見た9.11を思い出しながら、投稿したものです。

ネパール東端バドラプルから茶畑を越えてイラムへ(2001/9/11の行程)

以下の投稿 2011年9月12日

ネパールの首都カトマンズから、空路でインド国境に近いバドラプルに降りました。

まっ平らなタライ平野から北に向かってジープで山と谷を超え5時間、やっとイラムの町が見える丘に着いたのはもう夕方。深い谷からは雲が湧き、その向こうの尾根にイラムの町が望めました(写真)。そこからジープはもう一度深い谷の底に降り、またつづら折りの泥道を何度も何度も曲がって登り、やっとの思いでイラムの町にたどり着きました。

もう10年も前、2001年9月11日のことでした。枝さんとプラカスとの三人で行った、初めての東ネパール、イラムの旅です。

尾根伝いの町イラム

1万数千人が暮らす、尾根づたいの町イラム(写真)。1996年から始まったマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)の活動は、イラムも拠点になっていました。贅沢を禁じるマオイストの指示で酒の販売も禁止され、町の食堂でも表向きには出してくれませんでした。いちおう。

東電OL殺人事件の犯人としてゴビンダ・プラサド・マイナリさんに無期懲役の刑が下されたのは、2000年12月のこと。彼はここイラムの出身です。私達が訪れたころ、残された家族はこの町でつらい日々を送っていたのです。奇しくも今日2011年9月12日、支援者の力で来日した、彼の妻と親族が拘留中のゴビンダさんと面会しました。

茶畑に埋もれた町イラム

イラムは観光地ではありませんが、紅茶の好きな人はこの地名を聞いたことがあるかも知れません。ここから東に15kmほど行くとインド国境があり、インド側には紅茶で名高いダージリン地域があります。イラム、ダージリンとも冷涼な、紅茶栽培に適した山地で、英国企業によって開発されました。

イラム地域では、あらゆる斜面が茶畑にされていて、転げ落ちそうなほど急こう配の茶畑もあります。望遠レンズで覗いてみると、もこもこの茶の木の中に、そろりそろりと動く人影が見えます(写真)。

イラムの人々

この地域の民族はライ族、リンブー族などの中間山地民族です。イラム近郊の村には、「ライ、リンブーの差別反対」という看板が掲げられていました。ネパール東北部に住むライ、リンブーの人たちは、シェルパ族のように商才に恵まれていなかったため、生活は貧しく他民族から差別を受けている人々です。チベット系の民族なので、シェルパ族同様、日本人とよく似た人々です(写真)。

イラムの荷運びは馬

イラムでは、馬で荷運びを行います(写真)。ネパール国内では、アンナプルナ山群北側のチベット文化圏、ムクチナートでも馬が使われていました。またネパール国外では、中国雲南省北西部のチベット文化圏、梅里雪山山麓の地域でも同様でした。馬の荷運びの様子から見ると、イラムもチベット文化圏と言えるのかも知れません。

イラム・夕べの祈り

その夜9時ころ、イラムの町をぶらぶらし紅茶屋などをひやかしていると、歌声が聞こえてきました。その建物を覗いてみると、子ども、大人合わせて20人くらいがぎっしりと部屋の中で、テンポの良い祈りの歌を合唱していました。

出入り口まで人が立っていて、肩越しに中を覗いてみると、壁にはヒンズーの神々が祀られています。ハルモニウム(置き型アコーディオン)とカスタネットのような楽器の伴奏で、合唱が続いていました(写真)。カトマンズ周辺では聞いたことのない、明るくのりの良い歌でした。やはり、途上国ほど中央と地方との違いがはっきりと感じられます。

歌の後のお祈り(写真)が終わると、新聞にくるんだ果物やお菓子が配られ、私達、旅人三人にも、神様のご加護があるであろう、その包みが手渡されました。ここに集まった人たちからは、純粋な信仰が感じられ、日本での新興宗教系の、勧誘の下心、、というものは微塵も感じられず、快くその包みを受け取りました。

でも、ロッジへの帰り道、枝さんは神様からの包みを捨ててしまいました。その夜から、彼は神様の容赦ない仕打ちを受け、帰国するまで激しく腹を壊すこととなりました。

この神へのお祈りを見ていた5時間ほどまえ、9・11が発生。激震は世界を揺るがし始めていました。

イラムの白黒テレビに9.11が流れる(2001/9/12の行程)

翌朝9/12、ロッジの粗末な食堂に行くと、係のおじちゃんとおばちゃんが白黒14インチテレビをじっと眺めていました。小さな画面には高層ビルから黒煙が上がり、人影がハラハラと落ち飛び散っていく様子が写っています。映画のような映像の上下にはCNNの帯があり、それが映画ではなく現実のニュースであることが分かりました。何度も繰り返される映像に、おばちゃんが飽きたところで朝食を頼みました。

ネパールの山奥、イラムの安宿に流れるニュースに全く現実感を持てないまま、大国の一大事にも無関係な、質素でのどかな朝食が始まりました。テレビは世界・株急落のニュースとなり、見たこともないような日本の株価も映し出されていました。

ネパールの王政崩壊と9・11が起きた2001年

2001年のネパール王族殺人事件で、王位を得たギャネンドラは、翌年から時代錯誤の専制政治を行いました。その結果、2006年の王制崩壊をもたらしました。

この2001年は、USAにとっても極小国ネパールにとっても、国の行方が大きく変わる重要な年となりました。その瞬間と言える9.11を、世界の動きと遠く離れたイラムで見たことは、とても奇妙な想い出として、深く残っています。

9・11アメリカ同時多発テロ事件発生時刻
米国時間   2001年9月11日8:46
ネパール時間 2001年9月11日19:31
日本時間   2001年9月11日22:46

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